感じている(持っている)怖れの感情って
結局は子どもの頃に体験した
『もう2度と感じたくない感情』
なんだ ということを
お店の看板を作る過程で体感しました。
4000文字くらいの記事です。
お時間があるときに
ゆっくり読んでいただけたら幸いです。
***
さかのぼること3歳の私。
年少・年中を保育園で過ごしました。
私は、お昼寝のできない子でした。
しかも自分が寝ないだけでなく
周りの子に話しかける子でした。
周りの子も楽しそうに話てきましたが、
私だけ廊下に布団を出され、
「ここにいなさい」と言われました。
私は、
どうして眠くないのに寝なきゃいけなのか
わかりませんでした。
先生に聞いても
「お昼寝の時間だから」
と、言われるだけでした。
でも正直なところ、
廊下でひとりでいることは、
ちっとも辛くありませんでした。
やりたくないことを
先生の言う通りに
みんなと同じようにしていることの方が
よっぽとイヤでした。
私にはやりたいことがありました。
外でアリの列をもっと見てていたかったのです。
保育園時代のこんなエピソードは
山ほどあります。母は、
「毎日お迎えに行くのが本当に憂鬱だったのよ。今日は何を言われるのかって。」
と、大人になった私に
何度も話しました。
でも当時、母に叱られた記憶は
ほどんどありません。
ただ、誰かに話しかけると
「迷惑だからこっちに来なさい」
と言われることは多かったです。
私は『迷惑な子』だったのです。
*
私は保育園が嫌いでした。
嫌いな理由は、
やりたいことをやらしてくれないのに
やりたくないことばかりしなきゃいけなかった
からです。
そして
どうしてやらなきゃいけないの?
って質問には
誰も答えてくれませんでした 。
だから、
園の塀をよじ上りよく脱走していました。
力に屈せず、自分を通していたこの頃の私を
とても誇らしく思っています。
*
家に帰ってきた私に母は
「あら、じゅんちゃん。どうしたの?」
と、とても驚いていましたが、
母個人としてはそんなに問題には
感じていなかったと思います。
ただ、保育園に連絡して
先生に謝らなきゃいけないことが、
とっても憂鬱だったと思います。
*
ある日のこと。
いつものように脱走して
帰ったら家に鍵がかかっていました。
「お母さーん」って
何度呼んでも何度チャイムを鳴らしても
母は出てきませんでした。
でも、お母さんは中に居るって
私はなぜか知っていました。
これも大人になってから聞いた話ですが、
保育園からこう言われたそうです。
「じゅんちゃんが家に帰ってきても、居留守をしてください。」
母は、
「あの時、お母さんすごくつらかったのよ。じゅんちゃんの声がずっと聞こえていて。開けてあげたかった。」
と言いました。
でも、幼い私のほうが
よっぽど辛かったと思います。
だって、
一番味方になって欲しい人が
私の主張より保育園の方針を
優先したのですから。
私は3歳くらいまで記憶が
かなり鮮明に残っています。
だけど、
この日を境にプツっと途切れています。
抹消したかった記憶なんです。
辛すぎて。
*
記憶が戻っているのは、
幼稚園に入ってからです。
引っ越しをしたので
年長さんだけ幼稚園になりました。
幼稚園は楽しかったです。
ずっとアリ見ていても
誰も怒りませんでした。
お昼寝も給食もなくて
お弁当だったし、
午後は家に帰って
お母さんのそばにいたり、
1人で好きなことをして
遊ぶことができました。
幼稚園には、
やりたくないことは何もなかったからか、
やらなきゃいけないことも
普通にできました。
ちゃんと一列に並ぶこともできました。
先生の話も
最後まで聞くことができました。
「どうして?」と、
いつまでも聞き続けることも
しませんでした。
幼稚園の先生は
私と真っすぐに向き合って
対話をしてくれたからです。
*
2022年の3月上旬、
京都へ行ったときのことです。
交番で尋ね事をしていたら、
吉本新喜劇の山田花子みたいな女性が入ってきて、
「おまわりさん、iPhoneにな、たくさん迷惑メールがくるねんけど、どうしたらいいやろ?」
と、ものすごく不安そうに
聞いていました。
おまわりさんは『真剣』な顔で
(仮名)山田花子氏の話を聴いた後に、
「全部消しとき。大丈夫やで。」
と『真剣』に応えていました。
(仮名)山田花子氏は
「ありがとう~」と出ていきました。
が、
すぐ戻って来ました。
おまわりさんは「どした?」と
また真剣に聞き、(仮名)山田花子氏は、
「おまわりさん、これ飲んで。」
と紙パックに入ったお酒を渡しました。
「いやいや、今仕事中だから飲まれへんって。
でも、ありがとう~」
と、また真剣に応えていました。
(仮名)山田花子氏は安心した面持ちで
出ていきました。
私は、そのやりとりがずっと残っていて、
何度も健さんに話題にしていました。
「すごいね~関西ってあんな吉本新喜劇みたいなことが日常なの?おもしろい!」
とか。
「ほんとうに吉本新喜劇みたいだった。
私たちも出演者みたいだったね。」
とか。
そのたびに健さんは
「全然おもしろくない。2人とも真剣だったから、全然笑う話じゃない。」
とか、
「そうだね。きっとあれは毎日なんだと思う。彼女はきっと毎日来ていると思うよ。」(その見解にもびっくり!)
とか、
「うーん。吉本新喜劇だったらおまわりさんはもっと大袈裟かな~」
とか、それこそ真剣に
応えてくれていました。
京都から帰ってきて2日後、
急に氣が付きました。
私は羨ましかったんだと。
突拍子もないことを言っている
(仮名)山田花子氏に、
おまわりさんっていう
誰もが認める社会的な人が
真剣に応えてくれていることが。
保育園の頃の私は、先生に真剣に向き合ってほしかったんだ。
それに氣がついた私は、
「羨ましかった。私もちゃんと聞いてほしかった・・・」
って、健さんにポロポロと
涙を流しながら話ました。
健さんは台所で私たちの食事を
作っていたんだけどすぐに伝えたくて、
背中に向かって話しました。
健さんはすぐに振り向いて
「大丈夫だよ。今は僕が聞くから。」
って『普通に』言ってくれました。
その普通って、
「おはよう」って言った私に
「おはよう」って言うくらいの普通です。
そこから保育園の頃を
いろいろ聞いてもらってうちに、
「あなたは自分がやりたいことは”間違っていること“だって、保育園の頃に強く植え付けられたんだね。」
って、まとめてくれました。
そうだな、と納得しました。
保育園からいろいろ言われることを、
母は怒ったりしませんでしたが
「あなたは合っている」
とも言わなかったんです。
私は小さい頃から『真実』が見えて
口にしてしまう子でした。
大人になった今になって
当時を思い返してみても、
間違ったことは言っていませんでした。
でも、
周りの『管理しなきゃいけない大人』
にとってはものすごく都合の悪い子でした。
だから、
『面倒な子』として
扱われ続けました。
そして
・『わかる』ということ
・『やりたい』という自主性
・『個性』という財産
というとっても大事なモノを
奥に閉じ込めて鍵をかけました。
もう傷つけたくなかったんです。
そして、
な~んいも傷ついていないフリをして
守りました。
*
健さんは会話の中で何度も
「保育園がイヤだったんじゃなくて、先生がイヤだったんでしょ?」
と聞いてきましたが、
私はどうしても「うん」って
言えませんでした。
あの頃の私『じゅんちゃん』に、
「人が嫌い」なんてヒドイことを
言わせたくなかったんです。
『じゅんちゃん』は、
自分の中にある純粋性だけでなく、
みんなの中にある純粋性も
同じように信じていました。
私はずいぶん昔に、
思った通りに自分を表現する=否定される
やりたいことを思い切りやる=否定される
を、深く経験したから
今でも「思った通り」には
ブレーキがかかっていたんです。
だから、
誰もが認めるようなもの
を求める大人になりました。
でも、どんなに『みんな』に
すごいって言ってもらえたところで、
『わたし』は
ほんとうのところの欲しいものではない
から、満たされないんですね。
『わたしは何の特技もない』
『自分には価値がない』
と思う大人になりました。
でもそれは、
私に価値がないのではなくて、
ほんとうに欲しい『私』に
手を伸ばしていないから、
既に持っているいろんな『できる』も
価値がないものとして扱っている
だけなんです。
そのことに氣がついていない私は、
人として誰かの役になっている感覚を
追い求めました。
その結果、「助けてほしい」って
直接言うことさえもしない人に、
手を差し出して
『ただでやってくれる都合のいい人』
として、
自分の価値をさらに下げるということ
を、繰り返していました。
私がほんとうになりたい私は
「誰の目を氣にすることなく自分の思った通りに自分を表現している自分」
だとやっと受け取れました。
*
怖れという感情と共に奥底にしまった
保育園の記憶をひとつひとつ開けるのは
苦しかったです。
でも、健さんが聞きだしてくれたから
できたんです。
全部で1か月くらいかかったと思います。
私が思い付くと話し、
そのたびに真剣に聞いてくれました。
そして、
2022年お正月から
3か月間放置していた看板を
やっと彫りだすことができました。
どうして進めることができなかったというと
看板っていうお店の顔を
自分がつくるって怖かったんですね。
たくさんの人の目にとまるものを作ったとき
創造=私という存在
を、あの頃のように
否定されるのではないか、って。
健さんは
「俺がやってもいいけど、あなたは必ず後悔するから。待っているから自分でやりな~」って
3か月も待ってくれました。
看板を彫り始めた最初は
「私はいつだってやりたいようにやりたかった。誰かが決めた正解なんて知りたくなかった。すぐにできなくたってよかった。全部、自分で見つけたかった。」
って、ポロポロと涙を流しながら
彫っていました。
でも、ものすごくうれしかったです。
2022年3月20日から彫り始めたので
もう1週間が経っていますが
まだ出来上がっていません。
いつまでもチマチマと
細かいところを直し続けています。
おわらせたくないんです。
『普通であること』という力に
抗い続けていたあの頃の私に
やりたいことをやりたいように
もう少しやらせてあげたいのです。
長い文章を
最後まで読んでくださって
ありがとうございました。
星舟庵
西村純子